夜は、ただ静かだった。
音が消えたわけじゃない。
すべてが、そこにあるのに、何も主張しない。
開かれた障子の向こう、満ちた月がじっとこちらを見ている。
その光は、冷たいはずなのに、どこかやわらかい。
空気の中に溶けて、ゆっくりと、この部屋を満たしていく。
光は直線ではなく、揺れていた。
細く、幾重にも重なりながら、静かに落ちてくる。
見えないはずの空気が、そこだけかすかに姿を持つ。
その中心に、ひとり。
淀殿。
ただ立っているだけなのに、空間の重さが変わる。
すべての視線が、引き寄せられる。
表情は、ほとんど動かない。
怒りも、悲しみも、もうそこにはない。
ただ――
すべてを知ってしまった者の、静けさだけが残っている。
月光が、その顔にだけ、わずかに強く触れる。
透き通る肌は、光を受けて、内側から淡く返す。
人でありながら、人ではないような違和感。
着物は重く、美しい。
深紅と漆黒、そこに宿る金は、誇るためではなく、語るためにある。
時の重みと、選ばれなかった未来を。
袖が、わずかに浮く。
風ではない。
重力さえも、この場所では従っていないだけだ。
彼女は動かない。
けれど、すべてが彼女の周りで動いている。
その視線に触れた瞬間、気づく。
見られているのは、自分ではない。
もっと遠く。
もっと深く。
時間の向こう側まで、見通されている。
だから、目を逸らせない。
ただ静かに、そこに在るだけで。
この空間そのものを、支配している。
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