月の光が、
深い森の中に差し込んでいた。
夜の山は静かだった。
鳥の声もなく、
人の気配もなく、
ただ冷たい空気だけが、
木々のあいだを流れている。
その森の中で、
ひとりの少年が足を止めた。
白い衣をまとった牛若丸。
まだ小さな体。
けれど、その目には、
ただの子どもでは終わらない光があった。
牛若丸は、
目の前の大きな木を見上げていた。
そこにいたのは、天狗だった。
太い枝の上に立ち、
黒い翼を広げ、
赤い顔で少年を見下ろしている。
長い白髪と白いひげが、
月明かりに照らされて揺れていた。
その姿は恐ろしい。
けれど、ただ怖いだけではなかった。
山の奥にずっと隠れていた神秘が、
この夜だけ姿を現したようにも見えた。
牛若丸は逃げなかった。
驚きはあった。
恐れもあった。
それでも、
その瞳は天狗から離れない。
天狗もまた、
ただ少年を見下ろしているだけではなかった。
試しているようで、
見定めているようで、
どこか待っていたようにも見えた。
森は静まり返っていた。
月の光。
薄い霧。
苔むした木の枝。
そのすべてが、
この出会いのために用意された舞台のようだった。
牛若丸と天狗。
人の世界に生きる少年と、
人ではない世界に立つ存在。
ふたつの視線が交わった瞬間、
何かが静かに始まった。
それは戦いではない。
けれど、
この先の運命を変えてしまうような、
大切な出会いだった。
牛若丸はまだ、
自分がどこへ向かうのか知らない。
けれど天狗は、
その少年の中に眠るものを、
すでに見抜いていたのかもしれない。
伝説は、
大きな音を立てて始まるとは限らない。
深い森の中で、
月明かりに照らされながら、
誰にも知られず始まることもある。
牛若丸が天狗を見上げた夜。
それは、
少年がただの少年ではなくなっていく、
静かな始まりの場面だった。
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